1.はじめに
こんにちは。資産家を目指す大学生のdr.investorです。
私は偏差値50台の高校から史上初の国公立大学の医学部に合格しました。一般的にこのようなケースは元々頭が良い人、小さい頃から塾などで勉強をしてきた人などが多いですが、私は元々頭が良いわけではなく、塾にも通ったことはありませんでした。こんな私でも史上初の国公立大学の医学部に合格を成し遂げられたということはどんな人でも成し遂げられるということに他ならないということです。しかし結果と違って、私自身、私の受験体験全体としては後悔がないとか、大成功とは言うことは出来ません。史上初の国公立医学部合格は言葉では聞こえがいいかもしれませんが実際はいろいろ紆余曲折がありました。そんな私のリアルな経験を時系列順にお話していこうと思います。
2.小学校・中学校時代(勉強にふれるまで)
小学生の時は習い事は柔道を小2から小4まで習っていて、サッカーを小5から小6まで習っていました。前述の通り、塾、そろばん、くもん等に行っておらず勉強は全く行っていませんでした。学校の宿題はやったりやらなかったりといった感じでした。当時は私立や公立の違いも知らなかったので、私立であれば受験が必要であることも知りませんでした。結局当時は偏差値35程度の私立中学校を受験し合格できたので進学することとなりました。
中学生の時は学校の運動部の部活動以外は何もやっていませんでした。部活動もそこまで厳しいわけでもなく部活動がない日は友達の家で遅くまでゲームをしたり、公園で遊んだりしていました。入学してから現状の自分の学力に不安を感じそれから授業だけは聞くようにしました。中学校でも勉強を真面目にやってたわけでもなかったので、偏差値50以上の公立高校に受かるわけもなく私立だったので、そのまま高校に進学しました。
3. 高校時代(勉強開始)
勉強をはじめたきっかけ・モチベーション
まず私が勉強を始めたきっかけを話します。私の高校は様々なコースがあり、私は勉強コースを選択しました。勉強コースは文字通り、勉強をするコースなので部活動はしてはいけないことになっています。また学校外で遊んだり、塾に通う時間は無いようなカリキュラムになっています。私がこのコースを選んだ理由は3つあります。
1つ目は部活動をやったとしてもそのスポーツで生きていかなければ、将来にあまり活きにくいと思ったからです。そのスポーツがめちゃめちゃ好きであれば部活動をやる道を選んでいたかもしれませんが、そのスポーツをずっと続けることを想像することができませんでした。大学はスポーツ推薦で行くといった道もありましたが、それではいける大学が狭まってしまうと思いました。
2つ目は姉が勉強コースに進学していたからです。私は高校生までずっと姉と同じ進路をたどってきました。その流れで、なんとなくの安心感があったからです。
3つ目はやれば結果を出せると漠然と思ったからです。私は勉強が好きなわけでもなく、かといって大嫌いだったわけでもありませんでした。これまで勉強を全くしてこなかったからこその謎の自信だったのではないかと思います。
前述の理由だけではあまりにも消極的すぎる上に、中学生の私はそれだけで勉強コースを選べる程大人びていませんでした。実際、モチベーションは二つあります。
1つ目は中学の友達の存在でした。同じ部活動の友達はみなそれぞれの進学をし、塾に通っていた友達は勉強して偏差値70台の公立高校に進学し、英語が好きな友達は英語系の高校に進学し、運動神経抜群の友達と身長に恵まれた友達と体格に恵まれた友達は部活動を続ける道に進みました。私は友達がそれぞれの道で輝いて楽しんでいる姿を容易に想像することができ、勉強が好きで勉強がしたくて勉強コースを選んだわけではない私は友達たちがとても羨ましかったです。だからこそ、自分は自分の土俵で結果を出してやると覚悟しました。
2つ目は青春を犠牲にする分、必ず自分が納得のいく結果を得ようと強く思ったということです。部活動をやらず、面白いと思えるかわからない勉強を3年間して何も得られないのは嫌だと思いました。
勉強した先の未来のこと、つまり偏差値の高い大学に入って何をしたいか、将来どうなりたいかなどは全く考えず、このきっかけとモチベーションで私の勉強漬けの高校生活がはじまりました。
高校1年生
高校に入学した当初、私はクラスで真ん中より下くらいの成績でした。まともに勉強をするのは初めてだったので、とりあえず分からないところを作らないために目の前のことを理解することに焦点を置き、授業の予習→授業→授業の復讐をやって宿題をやっていました。そのサイクルをひたすら継続していました。科目は特に数学と英語を中心に行っていました。他の科目はほとんどやっていた記憶がありません。土曜日は学校で授業があり、日曜日は宿題を家でやっていました。そうすると高校1年の夏ごろの進研模試では国数英総合偏差値69.1を取ることができました。その後も成績は順調にのびていき、1月の進研模試では国数英総合偏差値82.3を取ることができ、学年1位となりました。大阪府でも16番目と自分ではとても満足のいく結果でした。
高校2年生
高校2年生の時もやっていたことは高校1年生の時と変わらず同じことをしていました。高校2年生では文理選択があり、私は物理に興味があったので、理系に進むことにしました。成績は順調で河合塾の全統模試でも当初の目標の大阪大学の工学部がA判定で志望校を京都大学の理学部に変更しました。これまで思うように成績がのびてきたので高校2年生の秋ごろから急激にやる気が無くなってしまいました。それからは予習、復習はせず授業は一応聞く、宿題はわからないところはすぐに思考放棄するといった生活を送るようになってしまいました。それでも成績落ちることなく維持し続けていました。そのまま高校3年生を迎えることになります。
高校3年生
高校3年生となって受験が迫ってきても、堕落した勉強スタイルは最後まで変わることはありませんでした。しかし、駿台の京都大学実践模試では志望にしていた京都大学理学部はA判定を取ることが出来ました。また高校3年の夏を過ぎた頃から自分が本当に工学部や理学部に進みたいのかを考えるとわからなくなりました。そうして医学部を検討することにしました。秋ごろの河合塾の医進模試では大阪大学の医学部医学科がB判定だったので無謀すぎることもないと思い真剣に医学部受験を考えましたが、結局最終的には国公立の前期第一志望は京都大学の理学部にすることにしました。直前の志望校変更で先生方に反対されたこと、自分自身も直前の変更でしっかり考えられているのかわからなくなったこと、堕落した勉強スタイルで自分自身自分の学力が医学部合格に足りていると思うことが出来なかったということが理由です。また、本当に医学部に行きたいと思えば再受験するだろうと思いました。
結局、私は京都大学理学部に合格することができませんでした。堕落した勉強習慣、受験直前の緊張感の無さ、やる気の無さこういったことを神様は見ていたということです。初めの覚悟と高校1年生から今までの積み上げた勉強を否定する象徴である不合格だったにもかかわらずなぜか悔しさは全く出てきませんでした。どこか自分で落ちて当然の勉強量、勉強の仕方だと悟っていたからです。
中期の大阪府立大学工学部、後期の神戸大学理学部物理学科、同志社大学には合格していましたが、自分自身それらの大学に進学することは納得できず、浪人することを決定しました。
4.浪人時代
私は駿台で浪人しました。再考したのち、私は医学部を受験することに決めました。駿台には駿台の模試で一定の基準を超えたもののみが入ることが出来るクラスがあり、私はその基準を満たしていたため、そのクラスに入ることにしました。そこのクラスには東大理科3類、京都大学医学部志望、大阪大学医学部志望しかおらず、みんな灘、東大寺、洛南など名だたる進学校出身の人しかいませんでした。私はこれまでいた環境では自分が一番賢かったのがあたりまえだったので打ちのめされました。
浪人は誰も勉強しなくても怒る人はいないので、勉強をやろうがやらまいが完全に自己責任でやるのもやらないのも自分次第です。浪人当初は高校1年生の時のように勉強しようと心を入れ替えたはずだったのに、私はなかなか堕落した勉強スタイルを治すことはできませんでした。結局浪人も予習復習はせず、家でも大して勉強せず、授業を聞いているような生活を送っていました。しかし、授業を聞いているだけでも成績は高3の時よりは上がっていました。 駿台の授業は本質的な内容で目から鱗で、もっと早くに学びたかったと思いました。
最終的には余裕というわけでもありませんでしたが、私は前期で国公立大学の医学部に合格することが出来ました。合格発表までは生きた心地がしませんでした。
受験体験記としては逆転合格感もなく、後味もよくないですが、これが私の国公立大学医学部史上初合格までのリアルな経緯です。
今振り返ってみると後悔だったり、改善するべき点がたくさんありました。
次回は私が高校生のころ、なぜ周りと同じことをしていたのに差をつけることができたのか、浪人時代に学んだ勉強方法、受験を通じて得た学びなどについて考察・反省を書きたいと思います。